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夏に駆ける

自分の意思では如何ともし難いこともあるでしょう。

人間の行動、知性、性格等は遺伝3割、環境7割の因子によって形作られるそうです。
つまり、自分を縛る100本の糸のうち、運命により染色されているのは30本だけであり、残りの70本は今からでも好きに染色できるのです。

また、遺伝子の不思議は日常の小さな癖にも現れると言います。

私には初夏を迎えた今頃、毎年不思議に感じる他人の仕草があります。
それは車の運転時に腕を窓から出す仕草。
これは男性に多く見られますが、残念ながら自分には発現していません。

そもそも日本では運転席が車体前方に向かって右側に設置されています。
そして日本車はマニュアルトランスミッションが主流であった時代の名残から、操縦輪に向かって右側に指示器用のレバーが設置されています。

畢竟、日本車は片手運転を前提とするのであれば、右手を選ぶのが最も合理的である、と断言しても差し支えないでしょう。

そんな中、なぜ窓から合理性を往来に向けて投げ出すのでしょうか?
狭い国土も手伝い、日本は曲がり角や信号が非常に多く配されています。
一度は夏の灼土に差し出した右手を、指示器を出すたびに引っ込める 一種非合理な仕草は、合理を極端まで突き詰めた日本車との対比が鮮やかであり、一種のユーモアさえ感じさせます。

その不思議な癖の謎を解く鍵は競馬にありました。
競馬は騎手がレース後に相棒である競走馬の首筋を優しく叩く姿が印象的です。
死力を尽くした競走馬に対する労いや、人馬一体の奮闘をお互いに称える、万緑を駆け抜ける様な清々しい仕草。

窓から手を差し出して折に触れてボディを叩く彼らの仕草も、炎天下の中の長時間走行に耐える愛機に対する労りのためなのでしょう。

しかしながら、その推測が正しいと仮定するなら、乗馬体験が乏しい現代人がなぜ馬を労る仕草を自然に発現させることができるのでしょうか。

乗馬体験という環境的要因が乏しいならば、遺伝的要因の方に理由を逐求することが自然でしょう。

それであれば仕方ない。
二重螺旋のどこかに閉じ込められた太古からのプログラムの発露であるならば、どんな抗力も徒労に帰すのが必定です。

誠に赤面の限りながら、窓から腕を出す仕草は遺伝的要因では私には発現しませんでした。

それでも問題はありません。
私にも残された7割の環境要因がありますから。
今から学べばよいのです。

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# by fripkaito | 2022-06-05 21:55 | 日常

甘き怪我よ、来たれ

久々に流血を伴う怪我をしたのが新鮮です。

昨日サッカー中に相手プレイヤーと接触した拍子に右手をついて、掌を擦りむいて流血ました。

そういえば最後に擦りむいて怪我をしたのはいつが最後でしょう。
自分は思い返すと高校生が最後かもしれません。

中学生・高校生と部活でサッカーをしていたので、程度の大小はあってもチームメイトの誰かは膝を絆創膏で覆っていた記憶があります。それだけ怪我は身近なものでした。


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大学に入学後、サッカーなんてカロリーを消費するスポーツは辞めて、自堕落な日々に浸ったため、一気に怪我は遠いものになりました。
働き始めた今、周りを観察しても擦りむいて怪我をしている人なんて殆どいません。

年齢を重ねるごとに怪我の回数は減るけれど、回数に反比例して怪我の程度は大きくなる気がします。大人の怪我は病院と隣り合わせです。

そんな感覚から、我々は各々「怪我ノルマ」を持っているのかもしれません。

一定期間内に消化するべき怪我のノルマがあって、擦り傷なら5、骨折なら80と言った具合にノルマを徐々に消化していきます。

子供は毎日少しづつ怪我をして、コツコツ怪我ノルマを消費してきます。
一方で大人はなかなか怪我をできないため、期末の締め切り間際にドカンとノルマを消化する必要があります。

だから子供の怪我は小さくて、大人の怪我は大きい。

自律神経を整えるとか安眠とか、そんな高尚な目的のためではなくて、
怪我ノルマの消化のために外で運動してみましょう。

想定以上にジンジンする右手を見つめて、「もしかしたらノルマを10ぐらい消化したかもな」とニヤニヤしながら。


# by fripkaito | 2022-05-29 22:30 | 日常

焦げ落ちない翼

春は何かと忙しい。師走よりも師は走っているような印象を受ける。

何故だか私はこの部屋で4年間を泡沫のように溶かし、引越しすることになった。
そこで困ったのが部屋に大量にある書籍である。何度も読んだ小説もあれば、一度も開いてない教科書もある。

そこで私は自炊をすることにした。
詳しい自炊方法は他のブログで腐る程紹介されているので、そちらに譲る。

自炊に際して私が準備したのはScanSnap S1500という現行機から数えて3つほど型落ちで2011年発売のおじいちゃんである。
自炊について右も左もわからない私は機種名と自炊というワードを検索してとりあえず情報収集することにした。
当然検索にヒットするのは2011年から2013年頃の個人ブログばかりで、
最近よくある「いかがだったでしょうか」系のキュレーションサイトなどはない。

そのブログのどれにも共通して言えることは「自分で経験した」ことを「自分の言葉と写真」で
「丁寧」に「何回かに分けて」「備忘録的」に「半分筆者自身のため」に書いていたことだ。
タイトルも各工程毎に分かれており、目的の情報にアクセスしやすく分類工夫されていた。
問題に直面した際には分析とその対処法を試せなかった選択肢も含めて記載してあった。
こんな先人たちのおかげで約10年後の私が自炊をスムーズに進めることができた。感謝しかない。
当時はスマホ黎明期でタブレットなどの端末もなかったように記憶しているが、彼らはどのようにしデータ化した書籍を
読んでいたのだろうか。

本とは不思議なものである。自炊のために「本」の背表紙を切断し、ただの「紙」に還元しなければいけない。
紙に還元した後にスキャンし、その後破棄する。
幼い頃から本は大切にしなさいと理屈なしで教えられてきた私にとって、本をバラバラにして破棄することが
たまらなく背徳的な行為に感じられ、自炊に二の足を踏ませる大きな要因であった。

作業を淡々と繰り返しつつ何故本はそんなに大切にされるのか、
本の本質はどこにあるのかについてぼんやりと思いをはせていた。

本それ自体は「アナログ」な物体であるが、中身は文字の集合体であり容易に複製が可能である。
しかも複製する際に文字が読めさえすればロスが発生せず同等の品質を保ったまま同じものをもう1つ作り出すことができる。
つまり「デジタル」的な性質を持ち合わせているのだ。
「ガワ」は嵩張り場所をとるアナログ的な性質を持っているが、本体である「ナカ」はデジタル的な性質を持っている。
チグハグなのである。

そんなチグハグな本を切り刻んで可食部だけに寄り分け、食べやすいように調理して摂取する。
だから「自炊」というのだろうか?

# by fripkaito | 2020-02-11 14:26 | 日常

完全感覚paraller

人生は選択の連続である。そんな格言は耳にタコができるほど聞いた。
選択によって自身が形作られ、未来が形成される。

確かにそうなのだろう。
今日の晩御飯はなにを食べようか。といったものから、会社を辞めるか辞めまいかといったものまで。

たとえば今日の晩御飯にうどんを食べるかそばを食べるの選択肢があったとしよう。
そしてそばを食べることを選択したなら今日の晩御飯にうどんを食べるという選択肢は消滅してしまう様に見える。
でも、うどんを選んだ未来も消滅せずに存在し、そのまま続いた世界をパラレルワールドと呼ぶ。
もしかしたうどんを食べると、食中毒にかかりそこで未来は潰えていたかもしれない。

ヤベーやつだと思うかもしれないが、ただの思考実験である。

シナリオ分岐のあるマルチエンディングのゲームを想像してもらうとわかりやすいだろう。
都度都度選択肢が提示され、その先にエンディングがある。実際はエンディングがいくつあるのか、その選択肢がエンディングにどの様な影響を与えるのかは、全くわからない。
ただ確かに選ばなかった分岐先にも未来はあるはずで、ちゃんとエンディングが用意されているはずである。

そのことを簡潔にわかりやすく考える糸口をくれたのが「家庭教師ヒットマンREBORN!」の未来編である。
入江はたまたま手に入れた10年バズーカの弾を使って様々な実験をする。二、三試したがどの先の未来でも白蘭にあう。
どの未来もパラレルワールドの筈で、白蘭にあっても彼は入江を認知しない筈だが、彼はパラレルワールド間の知識を共有する能力を持っているため、どのパラレルワールドでも入江を認知した。という話だ。

幼い私はパラレルワールドという概念がよくわからず、テレビの前で金魚の様に口をパクパク開けながら、早く戦闘シーンが口の中に放り込まれるのを待っていた。
ただ今思い返すと、パラレルワールドの理論を端的に説明して、うまく物語に織り込んでいたのだ。

実際には小さな選択肢の先に、またいくつもの選択肢があり、パラレルワールドも複雑に絡み合いながら分岐していることだろう。
小さな選択肢が未来像を大きく変化させる。
そう思うとB級のホラー映画よりも、よっぽど薄気味悪さと底知れない怖さを私に植え付ける。
過去の選択肢に何か誤りがないか、もっとこうすればよかったということが雨後の筍の様に生えてくる。
そして、親、二対の祖父母などに思いを馳せると、自身がどれだけ危うい確率の上に成り立っているのかがじわじわ心に沁みてくるだろう。
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この世界は小学校四年生の時に、リボーンの未来編を見た世界なのだ。
リボーンを見ていな世界も確かに存在していて、そこで私はどんな生活をしているのだろうか。

# by fripkaito | 2019-02-28 14:49 | 日常

時とは誰にとっても平等に非情なものである。
私も老いるし、両親も老いる。

両親が老いると子供は不幸になる。
子供は大人になるに連れて昔の思い出を再生産することが可能になるからだ。
昔の甘美な思い出も紐解くと大したものではないことや、親が子供時代の自身に施した教育の中で許せないものも出てくるだろう。
昔を想起しないことによって、この再生産と恨みは防止することは出来るが、そんなことは自制も強制も不可能だ。
なので、子供側が昔の親について思うところがあっても隠して、決して親へ言わないことで問題は一応解決を見る。

それに肉体的にも精神的にも親は老いる。
かっこよく車を運転してくれた父も庭で薔薇を育てていた母も老いる。
行動もどこか年寄り臭くなるし、最新のスマホなどにあたふたする両親を見るのは辛い。

時とは不可逆、不可視の力の流れである。
誰であれ逆らうことはできない。だからこそ光輝く思い出になる。

久々に実家に帰り、懐かしい家の匂いに身を浸し、私好みに味付けされた手料理を楽しみ、昔から変わらない銘柄のシャンプーで髪を洗っている時に涙が出そうになる。
この寂れた地方都市で過ごした日々に戻ることはできない。
あの時こうすればよかった、こんな風に声をかければよかったなどの後悔も、無邪気に遊んでいた日々の記憶も涙と当時に流れ出す。

思い返すと随分遠くにまで来たものだ。
そう思うのもここに自分の根が張っているという実感のようなものがあるからだろうか。
こんなことを言うと、まだまだ若いよ。全然じゃないか。という言葉を頂くことが多い。
しかし、私の主観的な年齢は18歳から頑なに前に進むことを拒んでいる。まだだ。まだ何にでもなれると声高に主張するように。

18歳で1人暮らしを始めた時には不思議と寂しさは感じなかった。
1人で過ごすことが苦にならない性格だからか、今でも1人で過ごす時に寂しさを感じることはほとんどない。
しかし多くの人が寂しさを感じないだろう、親や祖父母と過ごすときに寂しさを感じるようになった。
もしかすると、どんどん年齢を身に纏うことで私の客観年齢を暗に示す肉親と、まだまだ若さにしがみ付く主観年齢18歳の私との間に大きな矛盾が生じ、それに脳が耐えられなくなっているのかもしれない。

いい加減、主観年齢の針を少し進めないといけない時期に差し掛かっているのか。

かけがえのない思い出は思い出としてあるから美しいのだ。
自分がその中にいるうちには愛でることができない。
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時とは非情なものか。





# by fripkaito | 2019-02-12 18:50 | 日常